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静岡の茶生産を支えた商法会所・常平倉


連載企画:幕末の渋沢栄一~尊皇攘夷の志士に垣間見えた商売の才能~

 

静岡市出身の歴史学者・岡村龍男氏に寄稿いただいた渋沢栄一氏と静岡にまつわる書き下ろし連載記事をご紹介します。


第五回 静岡の茶生産を支えた商法会所・常平倉

―静岡の茶業を鼓舞する渋沢栄一―

 

勝海舟、門屋(かどや)に隠居する?

 

静岡駅からまっすぐ安倍街道(井川美幸線)を北に約10キロ、新東名高速道路新静岡インターや鯨が池を過ぎると、門屋(かどや)という地区があります。

 

門屋にある曹洞宗のお寺、宝寿院(ほうじゅいん)の境内に海舟庵(かいしゅうあん)という小さな建物があります。

 

その名のとおり、勝海舟の屋敷の建物を移築したものですが、なぜ静岡市の中心部から離れた門屋に海舟の屋敷があるのでしょうか。

 

 

写真:宝寿院(静岡市葵区門屋)

江戸無血開城を成し遂げたことで知られる勝海舟は、明治維新後も引き続き徳川家に仕え、静岡藩の重要な役職についていましたが、いつかは隠居して母とともに静かに過ごすことを考えていたようです。そんなときに出会ったのが、門屋村の名主(村の代表)で安倍通り(門屋から梅ヶ島に至る安倍川沿いの村々)でも屈指の有力者であった白鳥惣左衛門(しらとりそうざえもん)でした。惣左衛門と意気投合した海舟は、門屋村に隠居屋敷を建て、母を呼び寄せようとしました。

 

 

写真:宝寿院内の海舟庵

 

惣左衛門の子孫宅には、海舟が門屋村の人々に対して、領内の人々に世話になる旧幕臣の心構えを示したといえる手紙が遺されています。手紙の中で海舟は、「地域のルールを守り、決して迷惑をかけないようにするつもりだ」と述べています。

 

当時、静岡に移住した多くの旧幕臣たちが領内の民衆と衝突しており、民衆の不満が高まっていましたが、静岡藩の上層部にいる海舟自らが手本を示し、旧幕臣と民衆の融和を図ろうとしたのです。しかし、海舟の母は亡くなり、海舟も静岡藩や徳川家と明治政府の間を取り持つ仕事が忙しく、ついに門屋に移住することはありませんでした。

文政茶一件・嘉永茶一件と白鳥惣左衛門の茶会所

 

前置きが長くなりましたが、勝海舟が隠居しようとしていた門屋村と白鳥惣左衛門は、幕末の静岡における茶業の発展に重要な役割を果たしていました。彼の行動は、渋沢栄一の商法会所・常平倉設置のきっかけともいえる駿府町人たちの産物会所計画にも大きな影響を与えていました。商法会所・常平倉の前史ともいうべき、幕末の静岡における茶業を振り返ってみましょう。

 

19世紀初頭の文政(ぶんせい)年間と、ペリー来航前後の嘉永(かえい)年間に起きた二度の茶一件(文政茶一件・嘉永茶一件)という訴願運動は、茶の流通独占を目指す萩原四郎兵衛ら駿府茶問屋に対して、茶生産者たちが茶の自由販売化を求めたものでした。かつては、駿府茶問屋が茶生産者を苦しめる極悪人という側面が強調されることが多かったのですが、最近の研究で茶生産者たちも駿府茶問屋がいなければ生活ができなかったことが明らかになってきました。

 

静岡市を代表する茶産地である安倍・藁科の村々の多くは、江戸時代にはほとんど米が取れず、年貢も茶を売って得た現金で納めていました。江戸時代の人々は、基本的に十分な貯蓄を行うなどできず自転車操業が当たり前。茶産地の人々は、毎年駿府茶問屋からお金を借りて年貢納入や生活に必要な物や食料を購入し、茶の収穫が終わると茶をすべて駿府茶問屋に売り渡して、借りたお金と差し引きした分を受け取っていました。このような商いの習慣を、当時の茶産地では「仕合(しあい)」と呼んでいました。仕合は、お金を貸す側の駿府茶問屋の方が圧倒的に立場は強く、生産者としてはせっかく収穫した茶を買いたたきにも等しい額で売り渡さざる得ないこともありましたが、駿府の町から近くても10キロ、遠いところでは40キロも離れた安倍・藁科の茶産地にとっては、利益が少なくても駿府茶問屋に売り渡すほうが楽だったので、仕合は明治時代の終わり頃まで続きました。

 

嘉永茶一件の訴訟を進める中で、茶産地の人々は駿府茶問屋と同じような役割(茶産地の生活必需物資の購入に必要なお金の貸し付けと江戸やその他の消費地へ売り込むこと)を、同じ茶産地に住む裕福な家に頼むことを考えました。そこで白羽の矢がたったのが、門屋村名主の白鳥惣左衛門と羽鳥村名主の石上久左衛門(いしがみきゅうざえもん)でした。ともに、安倍郡の郡中惣代(ぐんちゅうそうだい。安倍郡の村々のリーダー)を勤めた安倍と藁科で屈指の名家でした。久左衛門の先祖には、現在も地名が残る藤兵衛新田(とうべえしんでん)の開発に私財を投じた石上藤兵衛(いしがみとうべえ)がいます。久左衛門の茶会所運営については史料が遺されておらず詳細は分かりませんが、惣左衛門については多くの史料が遺されています。惣左衛門が遺した史料から、茶会所の運営を紹介しましょう。

 

惣左衛門が茶会所の運営を始めたきっかけは、茶生産者たちから依頼されたとも、惣左衛門から申し出たともあり、史料によってまちまちです。惣左衛門は、駿府町人や親戚で島田宿屈指の豪商八木市左衛門(やぎいちざえもん)から、現在の金額で一千万円をこえる資金を集め、その金を安倍の茶生産者に貸し付けて出来上がった茶を受け取りました。この一連の流れは、まさにそれまでの駿府茶問屋との「仕合」と同じですが、生産者と同じ地域に住む惣左衛門の茶会所との取引は、駿府茶問屋と取引するよりもはるかに生産者にとって有利な条件で行われました。茶を集めた後は、消費地に送らなければなりません。ここで活躍したのは、現在の玉川地区にあたる落合村の狩野幸右衛門(かのうこうえもん)や安本儀左衛門(やすもとぎざえもん)といった茶産地に住む茶商人たちでした。彼らの持つ販路を利用し、惣左衛門は江戸や甲府に茶を出荷するようになりました。

 

当然、萩原四郎兵衛ら駿府茶問屋の面々にとっては惣左衛門の茶会所はルール違反であり、惣左衛門たちが清水湊に持ち込んだ茶荷物を没収して出荷できないように妨害をするなど、両者の争いは続きました。嘉永茶一件と呼ばれたこの争いは、最終的に安政4年(1857年)には示談が成立し、ともに当時外国に向けて開かれた横浜港へ茶を出荷することを目指します。特に、駿府の茶問屋たちは翌安政5年(1858年)の夏、東海道の各地でコレラが大流行する中、感染拡大に注意しながらも、この商機をのがしてはいけないと横浜へ駿府商人の出店を作る請願の準備を進めていました。ちょうどコレラの流行が収まった頃、この請願が認められ、駿府商人たちは国内の他の茶産地に先んじて外国へ茶を売り込むことができるようになったのです。駿府町人たちの横浜出店と並行して、惣左衛門の茶会所も江戸から横浜へと取引先の比重を移します。惣左衛門のもとには、もっと多くの茶を送ってもらうことを願う横浜の茶商人たちからの手紙が多く届きました。勝海舟や渋沢栄一が、静岡藩を支える産業として茶に注目に至った静岡茶の可能性は、惣左衛門の茶会所と駿府茶問屋による横浜への茶の売り込みによって基礎が作られていたのです。

茶会所の機能を引き継いだ商法会所・常平倉

 

幕末の安倍・藁科の茶生産を支えた茶会所ですが、明治時代になるとその活動が全く見て取れなくなります。その理由こそ、渋沢栄一の商法会所・常平倉の開設にあったのです。茶会所を運営した白鳥惣左衛門家の古文書の中に、牛妻村と野田平村(ともに賎機地区)が静岡藩の出張役所である井宮御役所へ宛てて提出した願書が残されています。この願書によれば、牛妻村と野田平村が「製茶・摘手入用(茶摘み費用)」に差し支えたので商法会所に費用の拝借を願い出たようです。茶摘みと製茶のためにお金を前借りするというのは、まさにそれまでは白鳥惣左衛門の茶会所が担っていた機能です。この牛妻村と野田平村の訴えは、意外にも渋沢から厳しい指摘を受けます。それは、書類の印形(ハンコ)に不備があったことでした。結局、両村の名主(代表者)が商法会所に出向いて書類を書き直すことになってしまいしましたが、両村の名主たちは片道10数キロの道のりを歩いて静岡の町に行かなければならず、出張費用もかさんだことに納得がいかないようでした。昨今話題になっているハンコの不備による手間は、こんなところにもあったのです。

 

さて、商法会所から茶摘みや製茶のためにお金を前借りした村は多く、東は富士・富士宮・西は藤枝・島田・川根までかなり広い範囲に及んでいたことが萩原四郎兵衛の「商法会所日記」からわかります。資金力が低かった茶生産者の人々にとっては、商法会所からの借り入れで茶生産ができるようになったことは大きな救いでした。このようにして、明治時代に入ってからの静岡の茶業はますます発展していくわけですが、渋沢は商法会所・常平倉が発足後わずか8か月で85,000両を超す利益を出した手腕が明治政府の目にとまり、大蔵省へ引き抜かれてしまいます。しかし、渋沢が静岡を去った後も常平倉は三井組のもとで営業を続けました。

 

静岡人よ、お茶の成功に満足するな!日本実業の根元は静岡にある!

 

静岡を去った後の渋沢は、静岡に残ったかつての主君・徳川慶喜のもとを毎年のように訪れていました。本連載の最後に、渋沢栄一が明治41年(1908)に静岡で演説した時の言葉を紹介します。

 

渋沢は、静岡の人々の努力によって茶業が成功したことはほめつつも、「今後はもっと有益な事業を考えていかなければならない。転ばないように気をつけながらも、駆け足にならなくてはならない!」と厳しい言葉をかけました。また、渋沢は商法会所・常平倉の経験があったからこそ、自身の明治政府や実業界での成功があったわけであり、「静岡は日本実業の策源地(根元)である」と振り返っています。どちらかと言えばおとなしく、大勝負に打って出ない”おとなしい”静岡の人々に対する渋沢流の激励と言えるでしょう。

 

全5回にわたって、渋沢栄一と静岡の関わりを紹介してきました。日本実業界の巨人と言われた渋沢が、意外にも静岡とのゆかりが深かったこと、さらには渋沢の事業の前提として静岡の人々の活躍があったことがお分かりいただけたかと思います。渋沢の言葉を忘れず、少し「駆け足に」いろいろなことに挑戦してみてはいかがでしょうか。

 

 

written by 岡村龍男

岡村龍男 プロフィール

静岡市出身。NPO法人歴史資料継承機構理事。駒澤大学大学院博士後期課程単位取得退学。静岡市文化財課、島田市博物館に勤める。現在は、静岡県内外で幅広く歴史資料の調査保存活動を行っている。

 

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