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渋沢栄一と静岡商人たちとの対立


連載企画:幕末の渋沢栄一~尊皇攘夷の志士に垣間見えた商売の才能~

 

静岡市出身の歴史学者・岡村龍男氏に寄稿いただいた渋沢栄一氏と静岡にまつわる書き下ろし連載記事をご紹介します。


第三回 渋沢栄一と静岡商人たちの対立

―米不足対策か産業育成か―

 

米不足の町 駿府

 

水稲耕作の跡が豊富に残る登呂遺跡の全国的な知名度から静岡は稲作が盛んな地域であったかのようなイメージが定着していますが、江戸時代の駿府は慢性的な米不足に悩まされていた町でした。

 

考えてみてください。なぜ、江戸時代の静岡で茶業が盛んだったのかを。米が十分に取れるのであれば、あえて茶を作る必要はありません。静岡市の山間部の多くが稲作に適さなかったから、そのような環境でも育ち、商品作物としても有力な茶を作るようになったのです。

では、江戸時代の駿府の人々はどのように米不足を解消していたのでしょうか。カギを握るのは、駿府に数百人いたと思われる武士たちです。260余年に及んだ江戸時代のうち、駿府に藩が置かれていたのは家康の十男頼宣(よりのぶ)、秀忠の次男で三代将軍家光の弟忠長(ただなが)の時代のごくわずかな期間のみで、1640年代以降は藩主不在で幕府が直轄する重要拠点となりました。

 

駿府には、駿府城の防衛責任者である駿府城代(じょうだい)のほか、町を支配する駿府町奉行や村を支配する駿府代官、駿府在番(ざいばん)や駿府加番(かばん)など〇〇番と「番」の言葉がつく駿府城の警備を行う武士たちがいました。駿府加番は主に外様(とざま)大名が、それ以外の役職は旗本(はたもと)が主に勤めました。

 

ちなみに駿府加番には全国の中小規模の外様大名が毎年交代で任命されたので、駿府加番の業務マニュアルが大名の間で書き写され、業務の参考に使われました。そのため、今も全国各地の旧大名家があった地域に駿府に関する史料が遺されています。二十世紀の終わりに静岡市が行った駿府城関係の史料調査で、全国から駿府城の絵図や城下町図が見つかったのはこのためです(残念ながら、天守閣が詳細にわかるものはありませんでしたが...)。特に八戸藩南部家(青森県八戸市)が遺した駿府加番関係の史料は膨大で、地元静岡ではわからない江戸時代の駿府の武家社会を知ることができます。

 

少し話が逸れましたが、駿府で仕事をしていた武士たちの給料は米で払われていました。武士たちも、米だけで生活できるわけではないので、当然米を売った金で必要な物を購入します。武士たちの給料として支払われる米は、静岡県内の幕府の領地から治められたものだけではなく、甲斐国(山梨県)や信濃国(長野県)から清水湊へ集められた米も含まれていました。

 

このように、江戸時代には武士たちの給料として支払われる米を駿府町人たちが仕入れることで、駿府の米不足を解消してきたのですが、江戸幕府が崩壊すると駿府の米不足を解消させてきた武士たちへの米の支払い自体が無くなってしまいました。そのような状況の中、静岡藩が成立したことによって1万人を越える旧幕臣とその家族たちが大挙して駿府に移住してきたのです。人口の急増は、移住してきた旧幕臣とその家族たちが住む住居問題に加え、深刻な食糧問題が発生する危機に瀕していました。渋沢栄一が「商法会所」をはじめる前提として、このような問題を駿府は抱えていたのです。

商法会所の構成メンバーと機能

 

「商法会所」は、銀行と商社を合わせた、今でいうノンバンクのような組織で、当時の日本では画期的な仕組みでした。

 

商法会所の構成メンバーを見ていきましょう。渋沢栄一は、「御勘定役中老手付(おかんじょうやくちゅうろうてつけ)」という名の役職で事実上の責任者となり、その他13名の静岡藩士が勘定役などとなりました。

 

そして、実務を担当したのが豪商といわれる「静岡の商人」を中心とした者たちでした。前回の記事で紹介した萩原四郎兵衛や北村彦次郎を筆頭に、江戸時代に特権商人であった者、幕末になって成り上がった新興商人が参加しました。渋沢は、特権商人と新興商人を入り混ぜ、これまでバラバラに活動していた静岡と周辺地域の商人たちを、「静岡藩の商人」として再編成しようとしたのです。

 

続いて、商法会所の実務を見ていきましょう。商法会所の主な仕事は、①周辺の農村に対する資金・肥料の貸付を行う御貸付掛(おかしつけがかり)と、②商業による資金運転を行う商法掛(しょうほうがかり)でした。①は銀行、②は商社としての性格を持っていました。①の責任者は萩原四郎兵衛、②の責任者は北村彦次郎でした。御貸付掛と商法掛に任じられた商人は、紺屋町の旧代官所(静岡市葵区にある現在の浮月楼の場所)に設けられた商法会所の事務所に交代で勤務していました。

 

御貸付掛・商法掛の下には、さまざまな役職がありました。例えば、「金銀包立御用(きんぎんつつみたてごよう)」は、幕末から続いていた悪銭の流通に対する監察を行っていました。また、御貸付掛の下で仕事を担当した金融融通方は、周辺の農村などへの融資が主な任務でしたが、「最寄商人取締」(もよりしょうにんとりしまり)という、周辺地域で商法会所から融資を受けている人々の監督も行っていました。

 

商法会所のさまざまな役職は、主要なものを静岡商人が占め、ついで交通の要所である東海道の宿場、周辺農村に対して取り締まりが行われていました。このように、商法会所は渋沢を中心として、静岡藩士が勤める勘定役のもとで、出自の異なる地元の商人たちが実務を担っていたのです。

御用商人との対立と商法会所への改称

 

このようにしてスタートした商法会所ですが、次第に静岡藩士と御用達商人たちの間で不協和音が生じ始めます。

 

1869年(明治2年)6月、幕末の徳川昭武渡欧に関する残務処理のため、東京に滞在していた渋沢のもとに、商法会所勘定を勤めていた坂本柳左衛門からの手紙が届きました。手紙には、「萩四宮五之奸邪には殆(ほとほと)迷惑」と書かれていました。「萩四」は萩原四郎兵衛、「宮五」は安倍川に最初の橋である安水橋を架け、安倍郡長ともなった宮崎五郎左衛門(宮崎総五)のことです。坂本は、萩原たちが安倍川の川越料金(当時は安倍川には橋が架かっていなかったため、川越人足が旅人を背負って川を渡していました)のつり銭不足を理由に、銅銭130両分を商法会所から引き出したことを非難したのです。他にも、農村に対する茶生産のための資金貸付の返済がはかどらないことから、中止すべきであるといったことが述べられていました。

 

商法会所の活動について、藩のために資金を保持しようとする坂本と、産業育成のため積極的な投資を図ろうとした御用達商人たちとの間には不協和音が生じていました。

 

商法会所の組織再考は、別の理由からも求められることとなりました。1869年(明治2年)6月、全国の藩が土地と人民を朝廷に返還する版籍奉還が行われたことにより、藩主は藩知事となり、独自の活動を行うことには制限が加えられるようになりました。これを受けて、商法会所が藩の資本で商業を行うことは版籍奉還の趣旨に沿わないので、再考するようにという命令が出されました。

 

渋沢栄一と静岡藩中老の大久保一翁(おおくぼいちおう)の間で話し合いが重ねられた結果、商法会所を常平倉と改称し、形式的には静岡藩の手を離れて渋沢を中心に置く形で組織の改組が行われることになりました。常平倉が商法会所と大きく異なる点は、貯穀と米価調節を重視したことでした。常平倉は、凶作などの際に人々を助けることを目的とし、そのための物品販売を役割としました。貯穀と米価調節が重視されたのは、やはり慢性的な米不足に悩まされていた静岡らしい判断だったのです。

 

次回へ続く…

 

written by 岡村龍男

写真:牧之原台地に広がるお茶畑(牧之原市)

 

 

 

岡村龍男 プロフィール

静岡市出身。NPO法人歴史資料継承機構理事。駒澤大学大学院博士後期課程単位取得退学。静岡市文化財課、島田市博物館に勤める。現在は、静岡県内外で幅広く歴史資料の調査保存活動を行っている。

 

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