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渋沢栄一と萩原四郎兵衛


連載企画:幕末の渋沢栄一~尊皇攘夷の志士に垣間見えた商売の才能~

 

静岡市出身の歴史学者・岡村龍男氏に寄稿いただいた渋沢栄一氏と静岡にまつわる書き下ろし連載記事をご紹介します。


第二回 渋沢栄一と萩原四郎兵衛

―静岡藩領内の豪商を集めた会所の発足―

 

駿府の豪商 萩原四郎兵衛

 

萩原四郎兵衛は、文化12年(1815年)8月16日、駿府安西二丁目の萩原久左衛門(きゅうざえもん)の長男として生まれました。天保4年(1833年)に萩原家の本家・土太夫町(どだゆうちょう)の萩原四郎兵衛家に養子に入り、七代目四郎兵衛となりました。渋沢栄一より25歳年上であり、親子にも近い年齢差でした。萩原の実家の久左衛門家は、江戸時代の中期には江戸城に茶を納入する御用茶師を勤めた駿府の中心的な茶問屋であり、萩原四郎兵衛家も茶問屋を営んでいました。

 

萩原は、家業の茶問屋を営むとともに、地域の様々な役職を務めていました。例えば、町役人としては安西明屋敷(徳川家康の大御所時代には武家屋敷があり、家康の死後に武士が激減すると空き地となった地区)の名主(なぬし、村の代表)や土太夫町の町頭(ちょうがしら、町の代表)を勤めるとともに、天保14年(1843年)には安倍郡村々の郡中惣代(ぐんちゅうそうだい、安倍郡の町と村のリーダー)となりました。あわせて、東海道三島宿から府中宿(駿府)までの取締御用(監督業務)を蒲原宿の渡辺退平(わたなべたいへい、蒲原宿問屋・郡中惣代を兼ね、韮山代官江川英竜の信頼も篤かった人物)と共に勤めました。まさに、駿府だけでなく現在の静岡市域を代表する有力者でした。

萩原四郎兵衛の先見性

 

萩原が多方面に手腕を発揮し始めた天保という時代は、水野忠邦(みずのただくに)による天保の改革の一環として行われた株仲間解散令(株仲間の存在が経済に悪影響を与えているとして解散が命じられた)によって駿府茶問屋や清水廻船問屋(かいせんどんや)が解散に追い込まれ、駿府・清水を中心とした経済圏には少なからず混乱が拡がっていました。

 

水野忠邦が失脚した後、嘉永4年(1851年)に株仲間再興令が出された事を受け、翌5年には駿府茶問屋が再興されましたが、茶の流通経路を巡って50を超す安倍・藁科の茶産地の村々との間で争いが起きました。安政4年(1857年)頃まで続いた「嘉永茶一件(かえいちゃいっけん)」と呼ばれる裁判です。

 

駿府茶問屋の惣代として茶産地の人々には極悪人のように思われていた萩原ですが、一件の途中、嘉永7年(1854年)11月4日に発生した「安政東海地震」に際しては、大きな被害が出た駿府の人々を救うために自費で施粥(炊き出し)を行うなど、あくまでも駿府町人の論理・利害にのっとって行動し続けました。

 

萩原は、駿府町人の代表者として戊辰戦争における官軍(新政府軍)の江戸・東北への進軍や明治維新後の徳川家が静岡藩主となり駿府城に入る際にも対応しました。官軍に対しては、「官軍に協力できることを嬉しく思う」と延べましたが、しばらく後に静岡藩が成立した際には「やはり駿府は徳川ゆかり地であり、徳川家を迎えることは喜ばしい」と、時勢に合わせて言葉を選んでいました。

 

萩原を初めとした駿府の豪商たちは、徳川家の駿府移封が決定する以前の慶応4年(1867年)3月、「御産物御会所目論見書(おさんぶつおかいしょもくろみしょ)」という文書を作成しました。

 

商法会所にもある「会所」という言葉には、集会所・事務所・取引所などの意味があります。この文書に書かれている御産物会所とは、駿府を中心として西は島田、東は沼津までの豪商を構成員とした会所=取引所を設置し、茶・椎茸・塗物・紙といった駿河国の特産品を会所で独占的に仕入れ、横浜港へ送って外国へ輸出することで領内の利益を確保することを目指したものでした。

 

この会所設置計画は、静岡藩成立後に萩原らによって藩に提出されたようですが、会所の性格が主に東海道の各宿に居住する商人たちに利益が集中するようになっていたことから、特に山間部の茶産地の百姓たちから反感を買いました。しかし、この会所計画が目指していたことは、渋沢栄一の商法会所に通じるものであり、萩原の先見性が読み取れます。

戦災に消えた萩原四郎兵衛の日記と諸記録

 

渋沢栄一の静岡藩時代の行動を知ることができる資料は、ほとんどが『渋沢栄一伝記資料』(以下、『伝記』といいます)に掲載されていますが、この『伝記』の元となったものの多くは萩原四郎兵衛が書き残した膨大な日記と諸記録でした。萩原四郎兵衛は、先に見たように茶問屋の経営に加え、多くの公的役割も果たしていたため膨大な文書・記録を作成していました。これらは、萩原の死後も萩原家に遺されており、戦前の静岡においてはまさに駿府・静岡の歴史を知るための虎の巻であったようですが、不幸にも太平洋戦争の空襲によってそのすべてが失われてしまいました。

 

渋沢栄一の死後に行われた『伝記』を編さんする際には、静岡藩時代の渋沢が親しくしていた萩原が遺した資料も調査の対象となりました。この調査が行われたのは戦前であったため、まだ萩原家に遺されていた萩原の日記や諸記録が筆写され、『伝記』に多くが掲載されたのです。

 

商法会所・常平倉の実質的な運営を担っていたのは、萩原を中心とした駿府町人であったため、商法会所の運営状況を最も知ることができる資料は萩原四郎兵衛の日記です。『伝記』の中の商法会所についての記録も萩原の遺した記録が多くを占めています。これらは、萩原が残した記録の全体から見ればごく一部かもしれませんが、渋沢の行動を知ることができるのと同時に、明治初年の静岡の姿を伝えるかけがえのない貴重な記録なのです。

スピーディに決まった商法会所の設置 

 

『伝記』によると、渋沢と萩原が初めて出会ったのは、明治2年(1869年)1月3日のことでした。明治元年の年末から商法会所設置の準備を進めていた渋沢は、どこからか萩原の存在を知ったようです。二人の間でどのような会話が交わされたのかを示す資料は残念ながら遺されていませんが、渋沢としては自分の計画を実行していく担当者として萩原に期待していたことであろうし、萩原としても幕末からの悲願であった会所の設置を積極的に推進する渋沢との出会いに胸を躍らせたことでしょう。

 

萩原との初めての会談を行った翌々日の5日には、萩原と並ぶ駿府の豪商・北村彦次郎を呼び寄せ、改めて会談を行いました。この後、渋沢は静岡藩、萩原、北村の間で打ち合わせを重ね、藩の上層部に対してはたびたび返答の督促を促し、早くも同月14日から16日にかけて商法会所の運営を担う商人たちの任命と、商法会所の開設が決定されました。

 

このように、幕末から駿府を中心とした駿河の商人たちを編成することを計画していた萩原と、静岡藩の財政再建に燃える渋沢によって、商法会所開設は計画からわずか一ヶ月余りで実現したのです。

 

次回へ続く…

 

written by 岡村龍男

写真:教導石(静岡市葵区追手町)

 

教導石とは、現在のYahoo!知恵袋の元祖といったもので、石の右側に尋ねたいことを書いた紙を貼ると、左側に答えがわかった者が答えの書いた紙を貼り付けるために使われたものである。この石は、山岡鉄舟をはじめとした旧幕臣や、地元駿府の商人たちが共同出資して建立された。

 

 

岡村龍男 プロフィール

静岡市出身。NPO法人歴史資料継承機構理事。駒澤大学大学院博士後期課程単位取得退学。静岡市文化財課、島田市博物館に勤める。現在は、静岡県内外で幅広く歴史資料の調査保存活動を行っている。

 

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