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渋沢栄一と静岡

新壱万円札の肖像となる渋沢栄一(1840年3月16日~1931年11月11日)。

 

今、なぜ渋沢栄一なのか――。

 

渋沢栄一は、明治政府の大蔵官僚として新しい日本の財政制度を整え、退官後は実業家に転じた、知られざる明治時代の偉人です。91年に渡るその生涯で、およそ500の会社設立と600もの教育福祉事業の設立に携わりました。

 

資本(合本)主義の父と称される渋沢栄一が、事業家の第一歩を踏み出したのは「静岡」でした。

 

江戸末期、埼玉の農家に生まれた栄一は、幼き頃より「論語(儒教の創始者・孔子の言葉を孔子の死後に弟子達が記録した古い書物)」などの中国古典を学び、その成長過程で、商人を低く見る身分制を嫌い、武士になろうと志します。

 

20代の若き栄一は、幕末の討幕ブームに乗り、幕府を倒そうと試みていました。みんなが同じように、幕府に不満を抱いていた時期です。

 

しかし、ある人に説得され、一橋慶喜(1837年10月28日~1913年11月22日)に仕えることになりました。その後、主君が15代将軍・徳川慶喜になったことにより幕臣となってしまったのです。

 

幕府に反対していた側から、それを裏切るように幕府側に回りましたが、渋沢栄一の目的はそもそも日本を強くすることでしたから、手段はどうでもよかったのかもしれません。「徳川慶喜は幕府を改革できる人物」と考え、幕府の中から日本を変えようと切り替えた柔軟さは、のちの渋沢栄一の偉業にも表れています。

 

慶喜から「これからは国内より、外国の方が脅威になるだろうから、世界を見て、勉強してきなさい」との命により、慶喜の弟・徳川昭武(1853年~1910年)後の水戸徳川家11代当主)とともに、1867年に開催されたパリ万国博覧会の視察に行きました。渋沢栄一は、この徳川幕府使節団の会計係に任命されました。当時、海を渡り、フランスへ行くまでには、約50日もかかったそうです。パリ万博のほか、幕府代表としてスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなどヨーロッパ各国を訪問します。

 

ヨーロッパでは、商人が力を持っており、軍人(日本でいう武士)と対等に渡り合っていました。商人が武士と対等に話をするというのは、当時の日本では考えられないことでした。今でいう、グローバリゼーションを目の当たりにしたのです。

 

既にフランスでは、社会から広く資金を集めて資本とし、それをもとに会社をつくり、社会的に意義のある仕事がなされていました。まさに、資本主義のしくみです。渋沢栄一は、このしくみが身分制度をやめ、商人の地位を高めて、官尊民卑を打ち破るツールになると確信します。

写真:慶喜公と面会した宝台院(静岡市葵区常磐町)

 

しかし、1867年10月、ヨーロッパ視察ツアーの最中、日本では大政奉還(政権を明治天皇へ返上)があり、新明治政府から帰国しなさいとの連絡がありました。

 

帰国後、静岡の宝台院(静岡市葵区常磐町)に謹慎していた慶喜と面会します。この時、慶喜から「これからは、お前の道を行きなさい」と諭されたそうです。

 

帰国したら仕えていた殿様が、将軍ではなくなってしまっていたわけですから、渋沢栄一はがっかりしたことと思います。しかし、大政奉還の最中に日本に居たら、幕府側の人間であった渋沢栄一もなんからの刑に処されていたでしょう。 

慶喜には恩があったこともあり、教覚寺(静岡市葵区常磐町)に居を構え、静岡に住むことにしました。

 

渋沢栄一は、後に謹慎が解けた(1869年9月)慶喜に、江戸時代に代官屋敷だった場所を用意し、慶喜はそこを気に入り約二十年間、隠居生活をすることになります。現在、そのお屋敷の跡は、浮月楼(ふげつろう・静岡駅前から徒歩3分)という格式高い料亭で、当時の面影を残しています。

 

慶喜は、過去の将軍たちとは違い、狩猟や写真、囲碁、歌、サイクリングなど多彩な趣味生活を送り、静岡の人々からは「けいきさん」と呼ばれて親しまれました。一方で、旧幕臣(家来)が訪問しても、渋沢栄一など一部の人にしか会わなかったと言われています。今も静岡の街にも浮月楼にも、慶喜の人間としての温かみを感じさせるエピソードが数多く残されています。

 

写真:徳川慶喜公謹慎之地の碑(宝台院境内)

 

渋沢栄一は、のちに慶喜について次のように語っています。

 

「慶喜公は、世間から徳川の家を潰したとか、命を惜しむとか、様々な悪評を受けられたのを一切顧みず、何の言い訳もされなかった。これは実にその人格の高いところで、私の敬慕に堪えないところです」

写真:渋沢栄一が居を構えた教覚寺(静岡市葵区常磐町)

 

静岡で暮らしはじめた渋沢栄一は、ヨーロッパで学んだことにインスピレーションを受け、紺屋町(静岡市葵区)で「商法会所」という商社と銀行を合わせたような会社を開きます。これは、日本の株式会社の前身と言われています。1869年(明治2年)1月、この時、渋沢栄一は28歳でした。

 

着目したのは明治政府から静岡藩への貸付金でした。これを元手に東京、大阪から肥料や米穀を仕入れ、静岡からはお茶や和紙を出荷。明治政府から借りたお金を漫然と使っては、後で返済に困ってしまう。それでは藩が破綻するから、事業を起こし利益を生んでいこうと考えたというのです。

 

これが大ヒットします。流通を盛んにし、今の静岡のお茶産業などにも多大な貢献をしました。

「商法会所」での手腕を明治政府の大隈重信に請われ、大蔵省に入省することとなります。

 

わずか10ヶ月の静岡滞在でした。

 

大蔵省の官僚としては、国立銀行の条例制定や度量衡(さまざまな物理的な計測法)の制定に携わります。1872年には紙幣寮(のちの国立印刷局。お金を印刷する行政法人)のトップに就任。しかし、予算編成を巡り、大久保利通や大隈重信と対立して、1873年に官僚を辞めてしまいます。

 

退官後は、実業家として、日本で初めての銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)をはじめとし、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙、田園都市(現・東急)、麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)、サッポロビール(現・サッポロホールディングス)、東洋紡績(現・東洋紡)、秩父セメント(現・太平洋セメント)、帝国ホテル、東京瓦斯、東京証券取引所など500以上の多種多様の企業の設立に携わりました。

 

渋沢栄一は、それ以上に社会貢献活動に熱心でした。日本赤十字社などに携わり、財団法人聖路加国際病院初代理事長などを歴任する傍ら、関東大震災後の復興のために寄付金集めにも奔走しています。

 

教育にも力を入れ、森有礼と商法講習所(現・一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に協力したほか、学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取りまとめに関わりました。

 

当時は、男尊女卑が根強かったのですが、女子教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わります。

 

また、民間外交の先駆者として、1927年に日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換して、日米交流を深めることに尽力。1931年には中国で起こった水害のために義援金を募りました。

 

このように、渋沢栄一が民間資本を集めて数多くの事業を起こしたのは、静岡での「商法会所」の経験が糧になったことと思います。

 

詳しくは、2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け(主演・吉沢亮)」にて描かれることでしょう。

かの有名なピーター・ドラッカーは、渋沢栄一について次のように語っています。

 

「私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『社会的責任』にほかならないということを見抜いていたのである」

 

暮らしや産業を豊かにするため、お金を使う。私益と公益をともに追求し、結果としてみんなが豊かになるという考え方です。

 

日本では、高度経済成長を経て、バブル崩壊後、長期に渡る経済停滞が続きました。企業の不祥事が頻発、格差も広がる。企業の社会貢献や持続可能な成長が課題になり、社会全体の変革が求められています。

 

そして、この2020年のコロナ禍。世界経済の混乱が続いています。

 

日本を誰よりも愛し、「国を豊かにし、人々を幸せにするには、企業の社会貢献が不可欠」とみて、幅広い社会事業、福祉、慈善活動にも取り組んだ、渋沢栄一。百年以上も前に、社会を変革する力を持った「ソーシャル・アントレプレナー(社会企業家)」の先駆けでした。

 

時代が、今ふたたび、渋沢栄一の思想を必要としています。